お菓子の素 よもやま噺

ホーム > お菓子の素 よもやま噺(その二)No.159 米

米

「米」は日本人のソウルフードです。
稲作の始まった昔から、私たちは「米」で生命をつなぎ、「米」で味覚を育ててきました。
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 米はいうまでもなく私たちの主食ですが、同時に餅類、落雁類、おこし、米菓などの和菓子に不可欠の素材でもあります。
 こういう事情は、小麦のパンを主食としている欧米で小麦を素材とするケーキ類、ビスケットやクッキー類が愛されているのと似ています。
菓子は人の肉体的生存には不可欠ではないけれども、心のゆとりと美意識―文化―にとって、かけがえのないもの。主食として手近になじみのある穀類は、楽しい菓子の素材としても、作る人と食べる人の美意識と味覚を満たしてくれるからでしょう。
 米が小麦と違っているのは、主食としては粒のまま炊くか蒸すかして食べられることです。小麦は粉にして水とこねてから焼かれるのが普通で、パンからケーキ類へはほとんど連続したものだったでしょうが、米から餅や米菓類へは、搗いたり粉に挽いたりして、主食として粒のまま食べている時とはまったく別の新しい技術が必要になりました。
 餅は日本と朝鮮半島に特有のものらしく、いつどのようなヒントで生まれたかについてはよくわかっていませんが、縄文時代以来、イモ類を保存や毒抜きのために加工していた手法を米に応用してみたのでは、ともいわれています。いずれにしても、餅は悠久の昔から作られ、伊勢神宮の神饌(お供え)や家庭で新年のお鏡として神様に供えるのは、そうした時代の名残です。
 餅自体が楽しい食べ物ですが、草餅、桜餅、柏餅、大福餅、ぼた餅、あんころ餅などの素朴な菓子が生まれ、さらに今日の多彩な餅菓子類が工夫され、愛されてきました。

 餅の粘りは独特で、鰹節の堅さとともに日本の食品の二大珍テクスチャー(歯ごたえ)といわれ、餅を「飲み込めるチューインガム」と形容したアメリカ人もいます。
一方、粉に挽いてから形や味を作っていく団子類、饅頭類、焼き菓子類などの穀粉菓子は、飛鳥・奈良時代に伝えられた「唐菓子」が始まりと考えられます。それまで間食といえば果物を食べていた人々は「唐から伝えられた間食」の意味を込めて「唐菓子」と書いて「からくだもの」と呼んだのでしょう。菓子は字からもわかるように、もともと「くだもの」や「木の実」の意味でした。
「唐果物」は8種類でしたが、そのうちの5種類は米の粉をいろいろな形に作って油で揚げたり蒸したりしたものでした。また、平安時代にも粉で作る菓子が14種類伝えられました。このうちにも米の粉を使うものが3種類以上はありました。は米を煎って(起こして)まとめたもので、今の「おこし」の先祖と思われます。
 唐菓子の伝来は、米を粉に挽く作業の伝来でもありました。大きな石臼なども伝えられました。東大寺には転害門と呼ばれる門があり、付近には「手貝町」がありますが、いずれももともとは「碾磑」で、碾磑は水力で廻す大きな石臼のことです。米の菓子はまず当時の貴族や僧侶から重んじられた、貴重な間食だったのです。

大塚 滋 Otsuka Shigeru

食文化研究者。新潟県生まれ。大阪大学理学部化学科卒業、理学博士。大阪府立大学教員、ウスター実験生物学研究所(米・マサチューセッツ州)研究員、武庫川女子大学教授、同大学大学院教授等を経て退職。著書に『味の文化史』(朝日新聞社)、『食の文化史』(中央公論新社)、『パンと麺と日本人』(集英社)、『世界の食文化』(共編/農山漁村文化協会)ほか多数。