東京あたりに住む者には、小田原は親しみのある町である。尖鋭な都会・横浜と違い、小田原と聞くとほっとするところがあるのだ。だが、小田原ってどんな町? と聞かれると、答えに詰まる。
象のいる小田原城、小田原提灯、二宮尊徳、梅干し、蒲鉾など、断片的には小田原で有名なものは多いが、歴史の町としても現代都市としても、際立った性格が浮かんでこないのである。
ところが、今回小田原を訪ねて、この町をすっかり見直すことになった。小田原は今、町としての顔を取り戻しつつあるようである。
小田原駅前にあって、銘菓「梅太郎」で知られるお菓子屋さん、正榮堂菓子舗の本店を訪ねると、社長の伊東正行さん(昭和28年生まれ)がすぐに案内してくださったのが、小田原の街歩きであった。
その楽しい街歩きで小田原を再認識させられることになったのだが、そのことを語る前に、まず正榮堂をご紹介しよう。
報徳二宮神社。小田原で貧窮のうちに育った尊徳二宮金次郎は、非常な努力の末に幕府の事業に関与するまでになった人物。境内には、柴を背負って歩きながら読書する姿のブロンズ像も。
正榮堂菓子舗は明治45年(1912)、初代伊東常吉が小田原ではやや西寄りの早川で創業した。東海道線の開通とともに小田原駅前に移ったが、正榮堂を一流の菓子店に押し上げたのは2代目社長の伊東梅太郎である。昭和40年代に自身の名前「梅太郎」をそのまま菓名に用い、小田原に多い甘露梅のなかの名品としてヒットさせたのも、梅太郎であった。
梅太郎のあとを長男の伊東征一さん(昭和18年生まれ)が継ぎ、最近、征一さんが会長職に、弟の正行さんが社長となった。4代目に当たる。
「ワイシャツなんかめったに着ないんです。何年ぶりかで着ましたよ」と言って私たちを迎えてくださった正行さんは、つい最近まで製造部長として、もっぱら工場でお菓子作りを担当してきた。今ではお菓子屋さんの社長には少ない、菓子作りのプロである。
「今、うちでは洋菓子をやめて、和菓子一本でゆこうということで、店も改造中なんです」
歴史をもつ洋菓子をやめて和菓子だけで勝負しようという、新社長の決断である。
正榮堂には、「梅太郎」のほかにも、大納言小豆の餡に求肥を入れた最中「虎朱印」、羽二重餅に柚子・胡麻・梅と3種の餡を包む「天地人」などの銘菓があり、カカオ酒とラム酒をきかせた栗餡をチョコかすてらで包んだ「小田原囃子」などには、洋菓子の技術も生かされているようだ。どこでも作れる菓子ではなく、正榮堂でしか作れない和菓子を、ということだろう。
正行さんのこの決断は、小田原で今進んでいる街づくりのコンセプトと関係がありそうである。街歩きにご一緒して、そう思った。
小田原漁港(早川港)。市街の西寄り、早川の河口に接する漁港。土曜日の朝に催される「港の朝市」は大盛況。
「街かど博物館」の試みが、小田原の町を見直させている。
二宮尊徳(金次郎)をまつる報徳二宮神社を参拝して、小田原城に入った。尊徳は小田原の生まれである。新幹線からは小さく見える小田原城も、目の前にするとなかなか大きい。
小田原城には、天守閣の前に動物園がある。ここでとりわけ人気を呼んでいるのが、インド象のウメ子さんだ。
ウメ子さん、日がな観光客を迎えてたいへんだが、同行のカメラマンが写真を撮ろうとしたら、ちょっとポーズをとってくれたとか。本当?
城を出て最初に訪ねたのが、丸う田代という明治初期創業の蒲鉾店。一角に「かまぼこ伝統館」なるコーナーがあり、蒲鉾製造にかかわる古い道具類などが展示してある。ここで試食をして、蒲鉾のおいしさに舌をまいた。
実は小田原では、市の肝煎りで「街かど博物館」という制度がつくられ、小田原市内17軒の老舗が関連資料の展示、体験教室などを開いて、これに協力している。正榮堂も、丸う田代も参加メンバーだ。ほかに塩辛、かつおぶし、薬局、寄木細工など、さまざまな業種が含まれている。特に旧東海道に当たる町筋には、「街かど博物館」加盟の店が何軒もかたまっていた。なかには明治期の建物もあって、趣深い。
そのうちの一軒、「ひもの工房」の早瀬幸八商店は、干物の名店。ここで買った金目鯛とアジの干物は、夕食の食卓で大好評だった。
小田原漆器の店、石川漆器にも立ち寄った。小田原漆器は伝統的に日用品を作ってきたというが、小田原土産の干物や塩辛を食べようと、この店で求めたのは楓材の箸。
小田原文学館。建物は明治の政治家・田中光顕が昭和12年(1937)に建てた別邸。小田原出身の北村透谷、尾崎一雄、小田原に住んだ北原白秋らの関係資料を展示する。隣接して白秋童謡館がある。
「街かど博物館」は、小田原の特産品と老舗を発信しているだけではない。城下町として、旧東海道の宿場町として育んできた文化、また海辺の町として受け継いできた魚介類の加工技術を、実物をもって如実に伝えている。
北条氏以来といわれる小田原の梅干しも、東海道宿場時代の旅人の需要で伸びたという。茶の湯の盛んだった城下町で発達した和菓子が、その梅と結びついて、「梅太郎」のような銘菓を生んだ。
最後は小田原文学館。ここでは、いかに多くの文学者が小田原に住んだかを知って驚かされた。谷崎潤一郎や坂口安吾も住んだが、北原白秋は7年もの間、小田原で暮らし、「揺籠のうた」、「砂山」、「からたちの花」など、世に知られた童謡のほとんどをここで書いている。
小田原が、東京の人々にとって絶好の保養地だった時代があったことを、この文学館はまざまざと物語っていた。
正榮堂の伊東正行社長は、こうして小田原にずっと続いてきたものがあることを、街歩きを通じて体験させてくださったのである。
「小田原暮らし、いいかも」
帰りの新幹線のなかで私たちはそんなことを言い合ったが、かなり本気だった。
神奈川県小田原市栄町2―1―29 TEL 0465(22)8155