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菓子街道を歩く 弘前「桜とねぷたの城下町ゆかりの甘味」 No.181

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弘前ねぷたまつり。約100基のねぷた(灯籠)がくり出し、土手町や駅前通りを練り歩く、盛大な祭り。8月1日〜7日。 |
北の文化都市
弘前市の繁華街・土手町通りを歩いてゆくと、交差点に出るたびに、驚くほど広い。つまり、それぞれの角の建物が思い切り後退して、交差点が大きな広場になっている。不思議に思っていたが、はたと思い当たった。そうだ、これは「ねぷたまつり」の群衆のための広場なのだ、と。
桜の時期と、8月の「ねぷたまつり」の1週間は全国からの観光客の歓声で沸き立つが、普段の弘前は、穏やかな空気が流れる町である。
弘前は津軽氏のもと、約300年の歴史をもつ城下町だ。だが、町を歩くと、明治から昭和初期頃までの建物が目につき、町の風景の特色をなしている。
市の中心部にある青森銀行記念館や旧弘前市立図書館、旧東奥義塾外人教師館、弘前昇天教会などをはじめとして、市内の洋風建築は相当数に上る。また、洋館だけでなく土手町通りには和風あるいは和洋折衷の趣あふれる建物の商家が軒を連ねている。時計店、革具店、漆器店など、いずれも営々と専業に従事してきた店である。
もちろん建物が魅力的なだけではない。内部には、弘前人のねばり強い底力がひそんでいる。
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弘前公園から見た岩木山。津軽平野にある活火山で、津軽富士と呼ばれる。標高1625m。8合目まで、スカイラインが通じている。 |
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弘前城。天守閣のほか、3つの櫓と5つの門が残っており、すべて国の重要文化財。現在は城跡全体が弘前公園と呼ばれ、桜の名所として名高い。 |
津軽藩の旗印
今回訪ねた、津軽の銘菓「卍最中」で知られる老舗・開雲堂も土手町通りにあり、昭和初期建築の重厚な商家の一軒であった。4代目当主の木村ノブさん(昭和8年生まれ)にお目にかかり、お話をうかがった。
「私どもは、明治12年(18
79)に、初代の木村甚之助が木村菓子店を創業したのが始まりです。木村の家は弘前の地主だったのですが、幕末から明治の初めにかけて、土地のほとんどを津軽藩に献上し、菓子屋に転業しました。その折のいきさつを示す明治 4年の御意振(殿様の言葉を書きとめたもの)が、私どもに伝わっております。転業の確かな理由はわかりませんが、初代が藩主から赤楽茶碗を拝領しています。
明治39年(1906)には、藩祖・津軽為信公没後三百
年祭の折、藩への長年の貢献が認められ、藩の旗印である「卍」の使用を許されました。これを最中の型と名前に使用したのが代表銘菓の「卍最中」です。
開雲堂の看板は、2代目甚之助が東京の塩瀬で修業しました縁で、当時の塩瀬のご当主から贈られたものです。「卍最中」や、「有明」という白い皮の最中、大正7年(1918)から続く、さくら祭り期間限定で販売される「つともち」などは、この2代目が考案しました。
3代目の直助は私の夫ですが、民芸協会に所属して、熱心に活動しておりました。津軽焼の壺入りの「干乃梅」を売り出したり、芹沢C介や棟方志功といった先生方のデザインの掛け紙を使用するようにしたのも直助です。
直助が亡くなって、私が4代目を継ぎましたが、店の伝統を守るためには努力を惜しみませんでした。私には子どもがいませんが、姪があとを引き受けてくれることになっています」
同席した姪御さんが、さりげない様子で4代目の一言一句に耳を傾けているのが、印象的だった。
岩木山と喫茶店
弘前城跡を歩いていて、ふと西側を見ると、目の前にすばらしい冠雪の岩木山が現れた。折からの快晴のなか、まさに津軽富士と呼ぶにふさわしい秀峰である。
城跡を出て北に、武家屋敷の保存地区を覗いたあと、津軽藩ねぷた村を見学した。実物大のねぷたを眺め、津軽三味線の演奏を聞く。津軽人の血をたぎらせるものの片鱗に触れた思いである。
城跡の南西側には50ヵ寺を超える寺が集められた寺町がある。津軽氏の菩提寺・長勝寺などがあるのもこの一角。また、町の南側には最勝院の五重塔が立ち、風景を引き締めている。
土手町で一軒のレトロ調のコーヒー専門店に入り、店の女主人に城跡で見た岩木山の話をすると、「そうでしょう。富士山に負けないですよ」と胸を張った。
弘前には落ち着いた雰囲気の喫茶店が驚くほどたくさんある。とびきりおいしい「卍最中」を訪ねての弘前は、実にいろいろなものに出会えた旅であった。
開雲堂
青森県弘前市土手町83 0172(32)2354
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卍最中 |
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岩木嶺 |
毎日、裏の工場で餡を煉り、
菓子を作る。
そして、表の店でお売りする。
その日々の真面目な繰り返しを
大切にしています。