菓子街道を歩く

ホーム > 菓子街道を歩くNo.132 東京・上野

東京・上野[広小路から谷根千界隈へ]

マップ

上野の和菓子といえば?

 上野、といえばなにを思い浮かべるだろうか。上野駅、上野公園、西郷さんの銅像、上野動物園、不忍池、アメ横、それこそ人それぞれに違いない。だが、上野の有名な和菓子屋さん、といったら、おそらく十人が十人、答えは「うさぎや」である。
 今回の「菓子街道」は、まず湯島天神に立ち寄り、不忍通りを北へ、根津から谷中へと足を伸ばしてみることにした。公園周辺をさしおいて選んだ、この谷根千(谷中・根津・千駄木)界隈、東京の街歩きでは、かなり前から人気なのである。そして、帰り道に「うさぎや」へ。しかし、話は「うさぎや」から始めることにしよう。

芸術家たちに愛された初代

イメージ 「花ぶさ」の料理。うさぎやに近い料亭「花ぶさ」は池波正太郎が通った店として知られる。味つけは京風の薄味。

イメージ 湯島天神の絵馬。大学受験をはじめ、各種受験の合格祈願と合格のお礼参りにくる人が多く、納められる絵馬の数は全国屈指である。

 「うさぎや」の創業は大正二年。創業者は谷口喜作、二代目は弥之助で喜作を継ぎ、三代目は紹太郎。二年前に紹太郎が急逝し、弟さんが急遽四代目を継いだ。現在の「うさぎや」社長、谷口宏輔さん(六十八歳)である。紹太郎の嗣子拓也さん(三十七歳)の五代目までが決まっている。
 現社長谷口宏輔さんは洒脱そのもののお人柄、話しぶりが、おもしろい。早口の東京言葉で、失礼ながら落語か漫談を聞いているような楽しさだ。お話をうかがった席は、池波正太郎が愛した料亭「花ぶさ」。「花ぶさ」と「うさぎや」の思い出を、池波は『散歩のとき何か食べたくなって』にさらりと書いている。
 初代喜作は富山県の出身。同郷の安田善次郎(安田財閥の祖)とのつながりから、金融関係の仕事をしていたが、早くから川上音二郎の劇団に関係し、尾崎紅葉のもとにも出入りするなど、文士、画家、役者などとのつき合いの広い人であった。
 一時横浜にいた喜作は、塗り薬や西洋ろうそくを商う店を、夫人にさせていたが、そのときから「うさぎや」を名乗っていた。喜作自身のえとにちなむ屋号である。「うさぎや」の名物になっている軒のうさぎの像も、当時から飾られていたとか。
 上野に出した菓子屋「うさぎや」は、すぐに軌道に乗った。喜作が、菓子づくりの名人・松田咲太郎と親しかったことも大きかったといわれる。初めはせんべいを主にし、やがて最中で当てた。
 喜作の各方面への顔の広さも、生きてくる。梶田半古や小林古径ら一流の画家が、掛け紙のデザインをし、高名な俳人河東碧梧桐が「うさぎや」の看板文字を書いてくれた。

「どらやき」を残した二代目

イメージ

根津神社。須佐之男神などを祭る古社で、前身は千駄木にあったが、現在地に創建し、社殿を造営したのは、5代将軍徳川綱吉。社殿はすべて重要文化財。境内に、鳥居が立ち並ぶ稲荷神社がある。

イメージ

谷中銀座商店街。意識的に昔風の町並みを保存し、再建している商店街で、しかも土産物店ではなく、周囲の住人の日常を賄っている。

 二代目喜作を継いだ弥之助は、「うさぎや」を代表する銘菓「どらやき」を創案した人である。
 ところが、一方で、弥之助は、初代よりももっと密接に文士たちとつき合った。十五歳のとき、父に連れられて河東碧梧桐に入門したが、句友に芥川龍之介の装丁をしていた画家の小穴隆一がいたことから、晩年の芥川を知り、昭和二年、芥川が自殺したときには、弥之助は葬儀一切の世話をしている。志賀直哉や永井荷風のもとにも出入りした。
 弥之助は俳句のほか、文章も書けば書も巧み、自ら本の装丁も手がけるという多芸の人だった。瀧井孝作や深田久弥など親しい作家の著書のなかには、「谷口喜作装丁」のものが何冊かあるという。
 それでいて、弥之助は「うさぎや」に、昭和十年代の第一次全盛期とでもいうべき繁盛をもたらしたのである。

 

ベネチアン・グラスのうさぎ

イメージ

うさぎやの「どらやき」。つくりたてを食べてもらうために、店の地下に工場を備えている。

 三代目の紹太郎は、初代や二代目とはまったく違った時代に、「うさぎや」を支え、発展させてきた。そして華々しくも、初めてのヨーロッパ旅行に出かけ、ベニスで病死したのである。
 「父は出発前、友だちにベニスに死す、なんてふざけて言っていたんです。そしたら、本当にベニスで死んでしまいました」と拓也さん。
 「でも、もともと大学ではフランス文学でしたし、父も内心はあちらに惹かれていたのかもしれません。サン・ミケーレ島で父を火葬したんですが、とてもいいお葬式でした」
 今、「うさぎや」の軒に飾られているうさぎはベネチアン・グラス製で、ベニスの巨匠の作品である。これを作らせたのが三代目だったのも、えにしというべきだろうか。
 上野のお菓子屋さん「うさぎや」に、こんな人と歴史の物語があった。

湯島の梅根津のツツジ

 宏輔さんの思い出話。
「私が子どものころは、湯島天神で隅田川の花火を見ましたよ。ぱっと花火が見えて、しばらくしてドンと音がしました」
 その湯島天神で、いつものことながら、合格祈願の絵馬の数に圧倒される。上野の春といえば桜だが、一足早いここの梅も見逃せない。梅の数ではなく雰囲気なら、湯島は日本一の梅の名所だろう。見ごろは二月下旬から。
 根津へ向かって、不忍通りか、一本西寄りの道を歩く手もあるが、ほとんどの人はここは歩かずに、地下鉄千代田線で湯島からひと駅乗り、根津で降りて、根津神社に直行してしまう。不忍通りの車の多いのが嫌われるのだろう。
 根津神社は、ツツジの花の名所である。見ごろは五月の上旬からで、桜より少し遅い。ツツジが満開になると、稲荷社のぎっしりと立ち並ぶ赤い鳥居がまた、独得の彩りを添える。神社の南側も、根津教会のある風情のある町並みだが、不忍通りをはさんだ東側は、明治まで遊廓のあったところとして知られている。

団子坂から谷中銀座へ

イメージ

朝倉彫塑館。朝倉文夫のアトリエを公開したもので、遺作500点を展示する。月曜・金曜(祝日の場合翌日)休館

イメージ

駄菓子横丁。日暮里駅前にある駄菓子類の問屋街で、なつかしい昔グッズがなんでもそろっている。かつては倍以上の規模の問屋街だったという。

イメージ

いせ辰の江戸千代紙。いせ辰は江戸時代から続く千代紙の版元で、大正時代に谷中へ移ってきた。竹久夢二の千代紙を売り出したのもこの店。

 根津神社を北へ抜け、不忍通り沿いに進むと、四百メートルばかりで団子坂である。西側が団子坂で、坂の上に建つ鴎外記念本郷図書館は、かつて森鴎外が住んだ観潮楼の跡。庭先から海が見えたところから、観潮楼の名がついた。
 団子坂下は、千代田線千駄木駅である。団子坂につながる東側は、坂の名前が変わって、三崎坂。この坂が散歩コースの目玉で、千代紙のいせ辰があったり、お茶の飲めるいい店がある。
 三崎坂よりさらに百メートルばかり北で、三崎坂と並行している通りが、谷中銀座商店街だ。谷中でいちばんの繁華街で、町並みに趣があり、東の突き当たりが石段になっている。これを夕焼けだんだんと呼んでいる。
 この夕焼けだんだんを上って、すぐの道を右に入ると、朝倉彫塑館。彫刻家朝倉文夫のアトリエを公開した美術館で、美術のメッカ上野に近い谷中らしい見どころだ。彫塑館の前をどんどん南へ行けば、また三崎坂に出る。
 夕焼けだんだんを上って真っ直ぐ行くとJR日暮里駅。ここから駅三つ南に戻れば、「うさぎや」に近い御徒町駅である。

うさぎや

東京都台東区上野1丁目10−10 TEL:03 (3831) 6195

イメージ   

イメージ
うさぎやの軒に飾られたうさぎ。何代目かのうさぎで、ベネチアン・グラス製。