日本の文化−四季のうつろい(七)

ホーム > 日本の文化−四季のうつろい(七)松竹梅 熊倉功夫 No.179

松竹梅 熊倉功夫

干菓子 松竹梅  近頃、立派な門松を見ることが少なくなったように思います。私の子どもの頃の東京では、大きなお家の門前に、出入りの植木屋さんの仕事なのでしょうが、鮮やかな切り口を見せる竹が三本、そして松がそれを囲み、新しい藁で胴を締めた門松が、必ずと言ってよいほど立てられたものでした。さて、そこに梅の枝があったのか、記憶にありませんが、恩師の西山松之助先生が、故郷の門松のことを書かれているのを読みますと、播州有年の里では、早咲きの梅がこれに添えられていた、とあります。松竹梅は正月のシンボルです。
 松竹梅という組み合わせは中国が源流です。中国では歳寒三友といって厳冬の中でも葉を落とさない松や竹の剛さや、雪中にも花を咲かせる梅のけなげさに、ことに文人たちは共感したようです。すでに唐代から松竹梅がセットになって詩の中にあらわれます。

雪持竹(ゆきもちだけ) ところが不思議なことに、中国では松竹梅が一組となって三友とされても、そこにはおめでたい意味がないのです。どうやら祝意の象徴としての松竹梅は、日本の発明だったようです。
 そもそも松竹梅セットが日本に輸入されたのは、室町時代。今から六〇〇年くらい前ではないかといわれます。とすると、当時の五山の禅僧たちが中国宋代の文人の風を慕って詩文を綴る、いわゆる五山文学の影響であったかもしれません。
 日本では、竹は神の宿るところです。竹の内側が中空であるところに、神秘が生まれます。かぐや姫が竹の中から生まれたのはその証といってよいでしょう。
 松もまた、神の宿る依代です。能舞台の背景には必ず松が描かれます。あの松は春日大社の参道にある影向の松を写していて、影向の松に降り来たった神が、翁の姿で舞台に登場するわけです。つまり、竹も松も神が宿る聖なる植物。おそらく松と竹の性質に引かれて梅まで一緒に寿福の象徴となったのではないでしょうか。
 同じ頃、七福神のセットも誕生しています。その由来を見ますと、ヒンドゥー教からきた大黒や毘沙門天、弁財天がいるかと思えば、道教の寿老人がいたり、仏教の布袋がいたりいろいろです。それを縁起物として七福神という形にまとめたのが、松竹梅と同時代の室町時代。どうやらこの時代から、庶民の福神の中へも大陸の影響が入り込んできたのだと思います。

春告草(はるつげくさ)  話が脇道にそれました。松竹梅に戻ります。お菓子では松竹梅が一つにまとまったものは少ないでしょう。松竹梅をすべて入れるにはモチーフとして多すぎます。ですから松のお菓子と竹のお菓子、梅のお菓子を組み合わせて、松竹梅にする例はいろいろありました。その典型は、昔の婚礼の引出物に使われたお菓子です。杉の縁高に羊羹が一本と煉切りが二つで、松が羊羹の意匠であれば笹と梅が煉切り、といった具合で、まことに巨大なお菓子でした。甘いもの大好きな私が毎日食べても食べきれないで、煉切りの表面が堅くなってしまうのが口惜しかった記憶があります。あの三つ組の引出物も、最近は見たことがありません。ちょっと淋しいことです。
 婚礼の松竹といえば、落語の松竹梅が思い出されます。松五郎と竹蔵と梅吉が、婚礼に招かれます。ご隠居さんに相談したら、三人揃っての口上を教えられました。

根引きの松 「なったあ、なったあ、蛇になった、当家の婿殿蛇になった、なんの蛇になあられた、長者になあられた」というのですが、最後を言い間違えて、「亡者になあられた」と失敗する話です。江戸時代は松竹梅の全盛期で、落語(元は江戸の小咄)にもあるとおり、人名や店名、品名などからあらゆるデザインやら美術まで松竹梅が登場しないところはない、といった流行をみました。
 どうやら松竹梅でものの等級を表すようになったのも江戸時代から。最初は遊女の格付けだったともいいますが、誰でも思い浮かべるのは鰻の蒲焼。「待つ(松)だけ(竹)うめえ(梅)」というダジャレがあるくらいです。
 今年も松竹梅で、めでたく春を迎えられました。このへんでお開きにいたしましょう。

■菓子製作:菊岡洋之(本家菊屋/奈良県大和郡山市)

熊倉功夫

1943 年、東京生まれ。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、(財)林原美術館館長、静岡文化芸術大学学長。茶道史、料理文化史を中心に幅広く日本文化を研究。主な著書に『日本料理の歴史』(吉川弘文館)、『文化としてのマナー』(岩波書店)、『近代数寄者の茶の湯』(河原書店)、『茶の湯の歴史――千利休まで』(朝日新聞社)、『小堀遠州茶友録』(中央公論新社)、『後水尾天皇』(中央公論新社)ほか多数。