日本の文化−四季のうつろい(九)

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風 熊倉功夫

風の音 私が好きな言葉に「花鳥風月」があります。花は植物界の代表。鳥は動物を代表していると考えますと、この世の生きとし生けるものすべてを花鳥の二語で表現しているすごい言葉です。
 風は自然の現象。月は太陽を含む天体からこの地球の大陸や海、里に至るまで自然そのものの象徴です。つまり花鳥風月のたった四字の中に、森羅万象この世のすべてを包含していて、しかも、その四字に、何となく四季を感じさせるのが心憎いところです。
 花鳥風月の中で夏といえば、風でしょう。初夏の茶席に「薫風自南来」という墨跡がよく掛かります。風薫る若葉の季節が過ぎて、盛夏になれば何より嬉しいのが涼風。そうこうするうちに、秋の気配。
     秋きぬと目にはさやかに見えねども
         風の音にぞおどろかれぬる(藤原敏行)
 風は目には見えません。しかし目に見えぬからこそ、同じく目に見えぬ秋の気配を教えてくれるのです。
 見えない風をヴィジュアルに表現することはとても難しいことです。しかし、東洋の人々は、目に見えることよりも、その背後にある見えないものを聞き知ることが本当の修行である、と考えてきました。
 茶の湯もその一つです。表千家七代目の如心斎という家元は、茶の湯をこんなふうに表現しました。

夏扇(なつおうぎ)      茶の湯とは墨絵にかきし松風の音
 そもそも墨絵で松風をどう描くのでしょう。嵐の中の松を描けば、ああ風が吹いているな、とは理解できますが、ここの松風は枝の間をサラリと吹き抜ける風でしょう。茶の湯では釜の煮え音を松風にたとえます。その煮え音も「ミミズが鳴くような」チチチとかすかな泡が釜底から立ちのぼる音です(ミミズが鳴くのを聞いた人はいないでしょう。これもあくまでたとえです)。そんな茶の湯の閑かな味わいを、この句は示しているともいえましょう。
 しかし、墨絵で風の音を表現するのが難しい上に、それを聞きなさいというのですから、そんなこと無理! 聞こえるはずがないと理屈で考えたのではどうにもなりません。茶の湯とは、目に見える形ではないし、言葉で説明できる理屈ではない、ということが如心斎の伝えようとしたことです。
 学校で教えるように、丁寧に教えてもらえばわかる、というものではありません。茶の湯は教えられてわかるのではなく、自分で気がつくものだ、と言い換えることができましょう。
 話が脇にそれましたが、そんなわけで風をヴィジュアルに表現するのは難しい。おそらく風をテーマにしたお菓子も決して多くはありますまい。その中で、珍しいのは「味噌松風」です。
 ふの焼から発展した非常に古いタイプのお菓子だといわれます。でも、その名前は一種の言葉遊びのようなもので、意味はお菓子の姿からきています。味噌松風は、表面には味噌を塗って胡麻をふり、美しく化粧していますが、裏はただ焼いた跡があるだけで、およそ淋しい限りです。つまり「裏(浦)淋しき松風の声」という言葉から、この菓子の名ができたそうです。

風渡る 風に象徴される四季のうつろいこそ、日本人が一番大切にしてきたものです。私は関東の人間ですが、京都へ移り住んで、ああなるほど、こういうことが四季の風情かと感動したことに、春の霞と初冬の時雨があります。
 関東平野には山が間近にありませんから、霞とかすむ、という違いがよくわからなかったのです。ところが京都は四周が山で、ことに東山三十六峰の山裾に霞がかかるのを見て、初めてそれを実感しました。東山のおだやかな緑なす稜線が遠望できます。しかし、その裾野は乳白色の霞に隠されていて、さらにその手前には京都の町並みや神社の甍が姿を現しているのです。
 また時雨も、関東にいる時は、寒気が近づく初冬の頃、淋しく降ったり止んだりする陰鬱な雨が時雨だと思っていました。ところが京都では、雨が通り過ぎたかと思うと太陽がちょっと顔を出します。雨に濡れ、散り残った紅葉が、その薄日に照らされてひらひらと舞うのです。淋しさの中のつややかさとでもいいましょうか、艶なるところがあるのが時雨です。
 雨、雲、虹……さまざまな自然の現象が、花鳥風月の「風」の中に詰まっています。

菓子製作:越乃雪本舗 大和屋(新潟県長岡市)

熊倉功夫

1943 年、東京生まれ。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、(財)林原美術館館長、静岡文化芸術大学学長。茶道史、料理文化史を中心に幅広く日本文化を研究。主な著書に『日本料理の歴史』(吉川弘文館)、『文化としてのマナー』(岩波書店)、『近代数寄者の茶の湯』(河原書店)、『茶の湯の歴史――千利休まで』(朝日新聞社)、『小堀遠州茶友録』(中央公論新社)、『後水尾天皇』(中央公論新社)ほか多数。